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フィリピンのバンブーオルガン [ESSAY&STORIES]

 クリスマス・イヴの夜明け前。まだ暗いマニラの街を抜け、ラス・ピニャス教会に向かった。
「バンブーオルガンのことは、フィリピン人なら誰でも知っていますよ。みんなその音を一度は聴いてみたいと思っているんです」 と、タクシーの運転手は誇らしげに語った。
 ラス・ピニャス教会のバンブーオルガンは、共鳴管が竹で作られたパイプオルガンである。

 人気のない道を30分ほど走ると、突然賑やかな街角に差し掛かった。木々に星型のランタンが無数に灯り、ミサに集う人々が広場に溢れている。その正面に建つ粗い石積みの建物が、ラス・ピニャス教会だった。

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 祈りの声の合間に、教会の中からオルガンの音が洩れてくる。時には笛のように、また雅楽のように。ひとつの楽器とは想像しにくい多彩な音色が広場に満ちる。
 ミサが終わり、ようやく朝が近づいた。堂内に入ると薄明の中に黙想する人々の姿がある。入り口近くの列柱の間に、バンブーオルガンはあった。表裏に琥珀色の竹が並び立っている。マニラ大聖堂などの壮麗なオルガンと比べるまでもなく、それは慎ましく古風な姿に思えた。

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 バンブーオルガンは、1820年頃スペイン人のディエゴ・セラ神父により設計され、作られた。セラ神父は音楽のほか自然科学、工学にも優れ、土地の人々の生活の向上に努めたと伝えられる。
 このオルガンには900本近い竹が、共鳴体として使われている。竹はフィリピンのいたるところに自生していて、民家や生活の道具、楽器など様々に使われている。セラ神父は民族楽器の竹笛の音色を聴いて、竹でパイプオルガンを作ることを思いついたのかもしれない。

 教会で売られている冊子には、この楽器と日本との関わりを記す一節があった。
「第二次世界大戦中、バンブーオルガンは当時フィリピンを占領していた日本軍の手で守られ、戦禍を免れた。学者、音楽家の徳川侯爵は、この楽器に特別な関心を持っており、彼の働きかけで1942年からバンブーオルガンの解体修理が行われることになった。この費用は侯爵自身の寄付をはじめ、日本軍政部とマニラ大司教と信徒たちの協力で賄われた」

 徳川侯爵こと徳川頼貞氏は、日本でも音楽研究家、愛好家として記憶されている。現在上野公園内にある東京藝術大学旧奏楽堂のパイプオルガンは、頼貞氏が日本で初めて輸入したものである。
 頼貞氏は1920年代にフィリピンを訪れ、バンブーオルガンの演奏を聴いた。
「その音色は丸みがあってゆかしく、笙を連想させる。竹の多い日本などで、今後この種のものを造ったらきっと面白いであろうと思った」と、著書『頼貞随想』には記されている。
 大戦中、頼貞氏は軍の顧問として文化面を担当するために再びフィリピンに赴いた。その頃バンブーオルガンはほとんど顧みられず、朽ち果てる程に傷んでいた。その状態を見かねた頼貞氏はフィリピンの要人に会い、このような文化財は自国の人の手で守られてこそ価値がある、と説いてまわり、賛同を得たという。

 1970年代には、バンブーオルガンは修復のためにドイツに運ばれた。修復を申し出たクライス・オルガン工房は、竹の乾燥を防ぐために気温や湿度をフィリピンと同様に保つ、専用の部屋を用意した。また将来の修理に備えて、フィリピン人の修理技術者を養成しながら作業を進めた。このような徹底した配慮には、ドイツ職人の気質とこのオルガンに寄せる関心の程がうかがえる。修復は1975年2月に終わった。バンブーオルガンは再びラス・ピニャス教会に据えられ、完成を祝うコンサートが開かれた。

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 それ以来、毎年2月には「国際バンブーオルガン・フェスティバル」が開催されてきた。その25周年を迎える2000年2月、再び訪れたラス・ピニャス教会は、着飾ったフィリピン人や外国人で賑わっていた。フェスティバルは約一週間続き、バンブーオルガンによるバロック音楽を中心に、ミュージカルやフィリピンの民族音楽など、多彩なコンサートが催された。スイスから訪れたオルガン奏者のギ・ボヴェ氏は、このオルガンは世界にただ一つのユニークな楽器であり、それを演奏することは特別な体験なのだ、と熱っぽく語った。

 近代史の荒波のなかで、スペインやアメリカが、また日本がこの国に遺した歴史の功罪は語りつくせない。ただバンブーオルガンは、厳しい時代にありながら美を求めた人々の証としてここにある。 
 夕立が上がり、南国の夜空に星が明るい。バンブーオルガンの奏でる竹の音は、演奏会に集う民族や歴史を異にする人々に語りかけるように響いた。

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芸術新潮2000年12月号掲載 
文藝春秋ベストエッセイ集2001年版掲載

登録文化財について [建築、住宅、街並]

「文化財登録制度」は、日本では平成8年にできた制度だ。
国宝、重要文化財のような堅い保存ではなく、活用しながら保存できるいわば「ゆるやかな保存」。
基本的に外観を残す制度なので、内部は自由に改装もできる。外部の見える部分の4分の1以上を改造する場合にのみ、届出が必要になる。
規制もゆるやかな分、優遇措置もゆるやか。固定資産税、相続税評価額が減免されるなど、若干の優遇措置がある程度だ。それでもいくらかは、所有者の負担を軽くして歴史的建物を遺していく助けにはなるだろう。
登録文化財となればあちこちで名が出るから、お店や旅館など商売をしていくにもメリットになりうる。

登録文化財に申請できる条件としては、
・築後50年を経過している建物で、
・歴史的景観に寄与しているもの
・造形の規範となっているもの
・再現することが容易でないもの
とある。どんな町でも、あてはまる建物はけっこうあるはずだ。

現在日本での登録文化財建造物の数は約7000件。
この制度は、欧米では古くから普及していて、イギリスでは40万(!)、アメリカ5万、フランス4万と、けたはずれの数が登録されている。
日本では、阪神淡路大震災がきっかけになってようやく始まったばかりというところだ。

登録に向けては、その建物の歴史についていろいろと調べることになる。その過程で、持ち主や周囲の人も、建物の大切さに気付いていくことは意味が大きい。
観光資源の乏しい自治体でも、町ぐるみで文化財登録に力を入れて、町おこしにつなげていくというのも手ではないだろうか。

この建物を登録文化財とするにあたって、奈良市の窓口になるところに相談した。
歴史遺産には事欠かない市だから、事はわりとスムーズに運んだ。
「文化財」といえば釘一本打てない、お上が指定するものというイメージがあるが、そればかりではない。
文化財登録制度のように、持ち主の側から登録を申請する手もあるというわけだ。


↓文化庁のページ
http://www.bunka.go.jp/1hogo/main.asp%7B0fl=show&id=1000000129&clc=1000000033&cmc=1000000097&cli=1000000104&cmi=1000000118%7B9.html

奈良の土塀修復 [建築、住宅、街並]

奈良の土塀の修復工事。
この塀はもともと奈良でよく見る土の塀だったが、数十年前に上にモルタルを塗る補修がされてしいた。
このモルタルが剥がれて崩れてきたため補修することになった。
土の上にモルタルを塗ると、湿気が抜けずに返って中がぐずぐずになって傷んでしまう。

これと同じような状態を、アメリカのニューメキシコで見た。
サンタフェ周辺のアドベ(日干し煉瓦)の建物に、近年モルタルが塗られ、返って悪い状態になっている。
十年ほど前、丸山欣也さん、久住章さんたちが中心のワークショップに参加したことがあった。
久住章さんは、左官職人としては有名な人だ。

この奈良の塀も同様の状態だったから、久住さん周辺なら対処方法を知ってるのではと思った。
でも久住章さんは忙しくて頼めないだろう。なので息子さんの一人、久住鴻輔さんに工事を頼んでやってもらった。
長男の有生さんも、最近は情熱大陸に出たりして有名になっている。
鉄骨や竹で補強し、十分寝かせた粘土を塗っていく。

土の上にモルタル、という補修はは一時は見栄えがいいが、必ず後で傷みがきて、塀内部まで痛めてしまう。
本物の土で補修しておけば、年月が経って古びてきても、それが味わいになってくる。奈良の土塀の風景はそういうものだ。
正しい対処方法が広まればと思う。

この家と土塀は、登録文化財に申請した。
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IRIS PROJECT [アート]

七色の毛糸を使ったインスタレーションをIRIS PROJECTと呼んでシリーズで続けている。
きっかけは江ノ島展望灯台での、MADE IN ENOSHIMAに参加した時だった。
ここの展示室は入り口が殺風景で人が入ってきにくい。どうしたら人を呼び込めるかを考え、手前にある螺旋階段に手を加えることにした。
どうしたら最小の手段で空間を変えられるか。考えた末に出てきたのが毛糸だった。
その色だけで、空間を性格付け、場をつくる。螺旋階段に巻きつけることで上昇感を生み、人を上に導く。
またエレベーター入り口は、混んでいる時は大勢の人が並ぶから、EV周りにぐるりとまきつけた。
最上階の展示室は、みんなが展示しているので少し控えめに。
虹の七色はビビッドでありながら普遍的で、不必要にこちらの趣味が出ないのがいい。
多様であることをセレブレイトする象徴として、虹色を選んだ。
毛糸というモノを見せるのではなく、そこにある場を顕在化させるためのインスタレーション。

2008年5月 江ノ島展望灯台にて

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2008年8月 鎌倉海の家ASIAにて


川崎民家園に行ってきた。 [建築、住宅、街並]

川崎民家園にいってきた。
今までも何回か行ってるけどその度発見がある。

今回驚いたのはボランティアの方々の勉強熱心なこと。
民家については大学教授くらいの知識じゃないかな。こちらの質問に的確+αの答えが帰ってくる。

で、聞いて面白かったのが富山の白川郷合掌造りのひみつ。
あれの囲炉裏の周りの地下で、火薬の原料の硝石を作っていたんだって。何か原料を囲炉裏の周りに埋めておくと熱とバクテリアの働きで硝石ができるんだそうな。で、前田家は幕府に極秘で住民に硝石を作らせていた。
秘密が漏れないよう、このあたりでは橋を作らず縄をつたって籠で行き来し、怪しい者(隠密?)の侵入を防いでいたんだって。
貧しくも長閑な合掌造りの風景は、今で言えば秘密ハイテク工場だったというわけ。

今、和風の家といえば畳と障子、瓦屋根を思い出すが、それはおおむね江戸時代以降の数奇屋。
昔の民家を辿ると、アジアや世界につながる広い世界が見えてくるようだ。

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足柄古道と富士山 [旅ばなし]

先日富士山に行った時通りかかった足柄峠の古道が気になっていた。
足柄峠は箱根の北の尾根続き。古代の東海道として整備された。さらに遡れば縄文土器も出土しているというから、そうとう昔から人が行き来する重要な峠道だった。
万葉集にも詠われ、

足柄の み坂に立して 袖振らば
         家なる妹は さやに見もかも

(足柄の峠に立って袖を振れば、故郷に残した妻にはっきりみえるだろうか)

防人として西国に赴く男の歌。人の心情は昔も今も変わらない。
ここから東が坂東。一説によれば、「坂東」の坂とは足柄の坂だともいう。さまざまな人や物が、足柄峠を越えて行き来した。
やがて箱根の道に代わるが、日本を二分する重要な峠だった。

車道に平行して細い山道が続く。古道とはいえ石畳の山道だが、ふと見た足元の石畳が丸く磨り減っていて、これはもしや荷駄車などの往来でできた轍かなと思う。
峠に出ると富士山が目の前に。
箱根越しの富士は見慣れているけど、裾野からすっきり見える富士はまたいい。

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下山路で通った杉林、間伐がされず密生したまま。下草が生えず表土が流出しかねない。
戦後に大量に植林したものの、外材におされ需要がなく、放置されたままのこうした杉林が花粉症の一因だという。杉に罪はない。杉を活用しつつ自然と折り合っていく方法はないものか。

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最古の民家・箱木千年家 [建築、住宅、街並]

箱木家は日本に現存する最古の民家と言われている。室町時代、14世紀まで遡る可能性もあるそうだ。
江戸時代、既に飛びぬけて古い家として知られ、千年家の名で呼ばれてきた。
場所は兵庫の山奥、電車を何回も乗り換えてバスに乗って、えらく不便なところ。

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障子も畳もない。治安の悪い頃だから窓も少なく暗い。軒はえらく低く、屈まないと入れない。けれど当時としては立派な造りで、豪農の家だったそうだ。庶民はまだ竪穴式住居やバラックみたいな家に住んでいたという。
広い土間にうまや、ちょうな仕上げの広間、台所、納戸。それだけ。
こんな家が、その後の日本の民家の原点になった。

屋根の形、低い軒をみていると、竪穴式住居の面影を残しているように見えてくる。
今日、和風と呼ばれている障子、畳といった要素は江戸時代以降の数奇屋。
日本的なものというのは、実はもっと幅広い、と、こんな家を見ていると思えてくる。
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タグ:古民家 再生

バンブーオルガン裏話 [ESSAY&STORIES]

一時期、海外を旅して写真や文を雑誌などに持ち込みしていた。
学生の時から「竹」をテーマにしていて、竹を切り口にして自然と人の関わりや、違った切り口の世界の見方を探っていた。

フィリピンのバンブーオルガンは、竹に詳しい人の間では割と知られているし、オルガン演奏者でも聞いたことがあるという人がいた。日本でも知る人ぞ知るというところだろう。

フィリピンで、人と話す度に、バンブーオルガンを知っているかと訊ねてみた。
マニラの若者であれ離れ島の住人であれ、知らない、と答えた人は一人もいなかった。当たり前だ、何言ってんだ?とけげんな顔する人もいた。
日本の文化遺産に例えれば、何といえばいいか。
奈良の大仏、あるいは東京タワー、という感じだろうか。フィリピンでバンブーオルガンはそれほど有名、かつ生きた文化財として親しまれている。

戦争中にバンブーオルガンを日本人が直した、という話は日本でも本の中でちらりと読んだことがあった。フィリピンでもわりと知られている話らしい。
教会で売られている冊子では、J.TOKUGAWAとある。

帰国後、この人が誰か調べた。国会図書館であらゆる方面で調べたが、分からない。
当時尾張徳川家の義親という人がいて、今も財団法人徳川黎明会というのがある。
意を決してそこに電話して聞いてみた。訳もなくしゃっちょこばってしまう。
訳を話すと電話の相手は興味を持ってくれて、現当主に聞いてみてくれた。

義親氏かどうかはわからないが、当時紀州徳川家に頼貞という人がいて、フィリピンに行っていたらしい、和歌山市図書館に聞けばわかるかもしれないと教えてくれた。
和歌山市図書館の人が、「頼貞随想」という本からバンブーオルガン修理に関する文を見つけてくれて、やっと修理の主がわかったというわけだ。

二流、三流の文化人であれば、我が国、自分がやったとばかりに菊の紋章や家紋を掲げたりするかもしれない。
頼貞氏にはそんな気配は微塵もなく、このような文化財は自国(フィリピン)の人が守ってこそ意味がある、という。
頼貞氏の他のエピソードもいずれ紹介しようと思うが、こんな戦乱の時代にも真の文化人といえる人はいたのだ。翻って今、政治家の中に真の文化人と呼べる人はまるで見当たらない。

後になって、頼貞氏は晩年、芸大に近い谷中に住んでいたと聞いた。奏楽堂のオルガンといい、微かに袖を触れ合う程の縁を感じた。

この頃までに何社か雑誌編集部と話をしていて、この内容でいけるかな、と持ち込んだのが芸術新潮だった。
いきなり高嶺の花かな、とも思えたが、大衆誌は大衆的な内容でなければ載せらないわけで、それはそれで難しい。
ここ、と思ったところに臆せず行ってしまうほうがいいと思った。

副編集長は、内容を好意的に捉えてくれて、ざっと書いてみることになった。
担当者は、こんな感じで書いてもらえるとありがたいです、と言ってくれたが、でもここはもうちょっとこう・・・と直される。だが他人の手が入るとどうもリズムが違ってしまうので、その部分を新たに書き直す。この繰り返しが4、5回。

スペインや日本がフィリピンと関わったのはもちろんいいことばかりではない。そのあたりをどう書くかが一番悩んだところだった。
『スペインの影響には複雑な思いもあるが・・・』
というようなことを書いたら、
「複雑な思いをしているのは日本人のあなたでしょう。フィリピン人の気持ちは本当にはわからないはずだ」と突っ込まれた。
それはそうだ。日記や身内など少人数に向けて書くことと、このようなメジャーな場、読者がお金出して買う雑誌で書くことは違う。プロの世界、ひとりよがりな書き方は許されない。

最後に思い至ったのは、歴史というものはいくら書いても書き尽くせるものではない。ましてこの短い文の中では。それにこれを読むのは芸術新潮読者。中、高校生じゃない。スペインや日本のフィリピンとの歴史は知っているだろう、ということ。
多少の誤解は仕方ない、と後半、歴史に関わる部分をばっさり切り捨て、短い文で後半をまとめた。
「いいと思います」と担当者。掲載となった。
載ったのは20世紀最後の号で、芸術新潮創刊50周年特集。タイトルは「最後の遺書」。編集部の意図があったのかどうかは知らない。

しばらくして、文藝春秋から年間ベストエッセイ集に掲載したい、との手紙がきた。
若手、アマチュアのエッセイ集かと思いきや、他の人は川上弘美、藤原伊織、野坂昭如、落合恵子、阿川弘之・・・
おいおい、名のある作家やエッセイストがぞろぞろ。いずれも肩の凝らない文で味のある話を書いている。
いきなり舞台に引っ張り出された格好だったが、それで気付くところも大、だった。
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富士山須走口五合目 [旅ばなし]

富士山は山登りばかりではもったいない。
五合目まででも、下界とは別世界の空気を味わえる。
去年の夏に須走口五合目とその周辺の小富士に行き、秋は綺麗だろうと思っていた。
10月12日は、一足先に秋真っ盛りの富士を楽しんできた。
須走口は鎌倉からも行きやすく、人も少ないのでのんびりできる。
御殿場から富士山に、カラマツの道をくねくね登れば雲の上だ。
まだ全面紅葉とはいかないが、ナナカマド、ダケカンバ、カラマツなどが色づいている。
霧がでたり晴れたり。もうすぐ山小屋も閉まって富士山は冬支度になる。
往路で足柄峠を越え、富士山の後は御殿場アウトレット、帰りがけに箱根の雲遊天山で一風呂浴びて帰る。
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幼虫から蛹へ [日常雑記]

数日前から、大きな青虫が窓のところでじっとしていた。

おととい見たら、糸で自分の身体を窓枠に固定し、蛹の準備。(左)
昨日見たら、見事に色が変わって蛹になってた。(右)
これなら鳥も虫だと気付くまい。
不思議なものだな。

しかし、なんでまたこんなところで冬越すことにしたんだろう。
人の周りというのは、小動物にとっては鳥などの外敵が来ない安全なところなんだろうか。
春までに何かの拍子でぶつけたりしてはいけないから、どこかに移してやろうか、蛹君。
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